前借り
幸せと借金は似たようなモノに思う。
自分の望む幸せを掴むのに、大抵の人間はそれに見合った努力や覚悟、いわゆる何かしらの犠牲を払ってようやくその幸せを掴む、もしくは維持しているんだと思う。
その支払いサイクルのバランスを壊さないように上手にやりくりしていくのが人として当然の行動なんだろう。
犠牲を支払わず、ただ一時の幸せに溺れる、そしてその怠惰の結果、須らくしてやってくる終わりを迎えたときに
絶望が"利息"として襲いかかってくる
というのを最近考えていた
努力をしてこなかったもの、していないもの、余裕がないもの
幸せを望んではだめなのだ。
ましてや、大切な人と一緒にいたいなど烏滸がましいにも程がある
存在するだけでそのものが負債なのだ
恨まれて蔑まれて生きているような人間がどうして人と一緒に居られようか?
浮かれていた。自分はこの人となら幸せになれる、かわれるのだと
結局、何一つ変わらなかった今までと同じだった。
前借りした幸せに自分だけ溺れていただけだった。
溺れ搦まり、気づけばまた一人
世間にとって、「誰か」にとってどうでもいい存在にまた戻っただけだった。
食卓に並ぶ料理が「誰か」、のために変わってしまうことが一番辛いことに気がついた。
本当に早く死んでしまいたいと毎日思いながら生きながらえている。
理想的な死で言えば、轢かれそうな子猫もしくは子供を救って死ぬのだ。
この後に及んで誰かに認められて死にたいと思ってる自分に辟易とする。
毎日そんなことを考えながら短い眠りにつく。
ご利用ご返済は計画的に。